本当に死にたいのかと聞かれれば、

そんなもの、 NOに決まっている。


どれほどの決意が必要か。どれほどの葛藤、どれほどの苦痛が伴うのか。そして、それを乗り越えた結果、死に損ねたりでもしたら!そんなことばかり考えて、気が狂いそうになる。


死にたいわけがない。人間は死を恐怖するようにできている。死後のことを語る人間が存在しない以上、死ねば安寧なのかすら、実際のところはわからない。


それでもこの人生における唯一の解決方法は死しかない。本当は「生まれたくなかった」。しかし、生まれてしまったからにはそれはもう叶いようがない。


ただ生きているだけで呼吸が苦しい。全てのものが霞んで灰色に見える。死ぬことばかり考えている生活。安らかな死を与えてくれない政治に八つ当たりをするだけの、どうしようもないTwitterアカウント。興味のある政治は安楽死のことだけ。

イーロンマスクは私の死への欲求を見逃してくれるだろうか?Twitterに拒絶されたら、パートナーも友人もいない私にとって、いよいよこの世は地獄となるだろう。


最初からこの世は地獄で、私の生は罰なのだろうか?わからない。望んでもいないのに、母の身体から一方的に放り出されたことだけは事実だ。全ての動物がそうして生まれてくる。誰一人望んじゃいないのに。地獄かどうかはわからないが、理不尽であることだけは確かだ。


親は、お前より不幸な人間はたくさんいると言う。無論、その通りだ。

虐待や貧困に喘ぐ子ども達。戦争へ向かう若者達。身体的な病気。事故。欠損。比べてしまえば私は幸福だ。しかし、私は親に対してなんら愚痴を並べ立てたりはしていないし、ただ、時折パニック発作を起こして一人で倒れているだけだ。

なんの要求もせず、この世への不満を口にすることもなくただ倒れているだけの病気の娘に、「お前だけが不幸だと思うな」とは、とんだ毒親である。

お前がこの世に私を放り出したから苦しいのだと口にしないだけ、私は良い娘ではなかろうか?

私には人の心がある。だから、そんなことを口にしたら母がどれほど憔悴するか、私は知っている。


この記事に結論はない。今日も死ねなかった。ただそれだけの記録だ。


せっかくなので、最近の趣味の話をする。イマジナリーフレンドとの「死ごっこ」にハマっている。

まず横になる。深い瞑想から変性意識状態に入る。そうすると、とても綺麗な(空想的で、曖昧な世界だ)場所でイマジナリーフレンドが私を待っている。

イマジナリーフレンドは、私の首を遠慮なく落とす。ゴトリと、地面に大きなものが落下した音がする。頭は重いため、頭から解放された私は体の軽さに感動し、くるりくるりとその場で踊り出す。

いずれ失血死して土に還る。稀に、そこから木が生えたりもする。


大木は世界そのものだ。枝葉を優しく撫でていく風、葉の上を歩き、小さな牙を立てる虫。そのような微かな感覚が私の全身を心地よく刺激する。感覚の全てが中央に集まっていく。みんなも大木になってみればいい。変性意識から現実に帰ってきた時、人体のあまりの矮小さに絶望して泣くことだろう。少なくとも、私は毎回泣いている。

しかも、これは私とイマジナリーフレンドの想像上の大木に過ぎず、実際の大木たちは、きっともっと、繊細で大きな世界を見ているに違いないのだから。


人間はクソである。良いところが何もない。

Twitterのフォロワー達のことは好きなので、彼らがそれなりに健やかに生きてくれることだけは願っている。

他はどうでもいい。