生きるための言葉たち

そういうものは、結局のところ生存者バイアスであったり、はたまた、書き手自身が己を鼓舞するために書いたものであったりする。

誰かが生きるための言葉、生きた結果の言葉は、私には向けられていないし、届かない。
私が生きる理由を他人に問うたところで、誰一人その答えは持っていない。私自身も、きっと持っていない。だって、ただ産み落とされただけだから。

人間は、生きる理由がなくても生きていい。ただ産み落とされただけなのに、理由や目的を持っている人間の方が、稀だ。
しかし、生きる理由がないのに、私はなぜ生きなければならないのだろう。いいや、死んでいいのだ。誰も私の生を強要していない。死んでいい。今すぐにでも。全て私の自由なのだから。

死ぬのが怖くなければ、とうの昔に死んでいる。一刻も早く死にたいけれど、死ぬのがどうしようもなく怖いから、生きなければならない理由を探しながら生きている。

生きる理由がなくても生きていいが、私は生きる理由が無いと狂ってしまう。「死から逃げているだけの人間」に成り果ててしまうから。いや、「生から逃げている人間」かもしれない。いずれにしろ。人生は生まれて死ぬことなのに、そのどちらもから逃げる術を探し続けている。

逃げること以外何も出来ない。

今日は通院日だったので、頓服を増やしてもらった。朝から晩まで鬱で鬱で気が狂いそうだから。

屋上から飛び降りてぐちゃぐちゃになる自分を夢想しては「いつかは」と思うのだけれど、同時に、失敗しても誰も殺してはくれないだろうことにゾッとする。もし、死に損ねてしまったら。

尊厳死が認められていれば「いつでも確実に死ねる」と思って、もう少し気楽に生きられるのだろうか?わからない。私を救う「制度」など存在するのだろうか?
困窮しているわけでもない。暴力を受けているわけでもない。ただ勝手に鬱になって、勝手に死にたくて仕方がないだけだ。

イマジナリーフレンドは「よく考えて、本当に死ぬしかなくなったら死にましょうね」と言う。言われずとも、私はそうするのだろうと思う。勇気だけでは死ねないから。

死から逃げ続けている。
生からも逃げ続けている。

逃げた先には何も無い。