弱者は傲慢だ

※一度削除したnoteですが、これも私の素直な考えの吐露なので、手直しして再投稿することにしました。

あれは、お茶の水大学がトランス女性の受け入れを決めたというニュースが流れてきた時だった。
更衣室やトイレはどうするのか、と真っ先に思った。私は女体に生まれたので、人並みに痴漢などにあって生きてきた。まるきり男体であるどころか戸籍すら男性のままの人間を女子スペースに入れることなど、あってはならないと思った。
それを国立大学であるお茶の水が認めることで常識として一般化してしまったら、必ず悪用されると私は考えた。
そのような危惧の話をフォロワーとしていたところ、別のフォロワーから、「トランス女性を犯罪者扱いしていることに気付いていますか?」と言われた。

「気付いていますか?」だ。そう、この言い分である。
私が無知で浅慮で愚かな人間であるかのような言い分。本当に傲慢だ。弱者やそのアライ(ally。マイノリティの理解者を示す)というのは、こうやって他人を見下し、話を逸らし、罪悪感を植え付けるのだ。
決して自分の加害性と向き合おうとはしない。誰だって、私だって、生きていれば必ず誰かを踏んで生きているというのに!正しく清い自分(または、自分が認めた美しいマイノリティ)だけが虐げられているという妄想に縛られて、自分の足元など一度だって見やしないのだ。

私は確かに愚かであるが、自分の加害性から目を逸らしたくはない。相手の言い分には腹が立ったが、それから3年間、彼が指摘した「差別」について考え続けた。セクマイを含むマイノリティ差別について、女性差別について、男性差別について。私は当事者やアライの言葉を読み続けた。結論は上段だ。

私は自分を絶対的に弱者だと思い込んでいる人間のことが嫌いなので、フェミニストのことも嫌いだ。嫌いだが、昨今彼女たち(の中でも市井の女性たち)がトランス活動家たちから受けている仕打ちは、とても許せたものではない。
海外では私の4年前の危惧はとうに現実となっている。女子学生が共用トイレでレイプされ、女囚が女子刑務所で自称女の男にレイプされ、もう無茶苦茶だ。女子スポーツにまで入り込んで、身体女性の記録を塗り替えている。身体女を女と呼ぶことは差別とされる。もはや身体女は女ではなく、女装男こそが女なのだ。政治的に正しい女とは、男のことなのだ!
これほどまでに傲慢な行為が、弱者だと認められされすれば、正しいこととされてしまう。そりゃあ、誰もがこぞって弱者になりたがって当然だ。弱者こそが一番強いのだから!


しかし、この怒りとは裏腹に、私もまた傲慢な弱者なのだ。
今、世界中で「キャンセル」が流行している。著名人の行動や言動(多くの場合、それは過去にまで遡る)を糾弾し、仕事を失わせるようなことだ。それは善良な市民たちによって行われる。善良な市民たちとは、私たちの事だ。私たちは弱者であることに甘え、なんならそれを正義とすら思い、悪しき強者を引きずり落とすのだ。
私たちは今こそ自分の足元を見つめ直さなければならないと思う。私一人がそう思ったところで、何にもならないが。何にもならないし、何もできない。アカウントが規制されるのを恐れて、何かを呟いては削除を繰り返す、愚かで小心でどうしようもない人間だ。

これまでもこれからも、弱者は傲慢であり続けるのだろうし、解決策はきっと存在しない。私も弱者の一人として、傲慢な世論にとけこみ、誰かを踏み躙り続けるのだろう。そうして、その度にただ無意味に心を痛めるのだろう。

悲しいし、情けない。