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久しぶりのはてな

 

はてなハイクがいなくなってから触ってなかったはてな……。

先日Twitterが大規模凍結しましたね。Twitterが消えたらはてなハイクGoogle+に帰りたいんですけど、どちらも何故か存在しないんですよ。これは深刻な不具合。

 

「楽しかったインターネット」を取り戻したいのかなあ。

はてなハイクをやりたいなあ。

かつてのリヴリーを育てたいなあ。

冬のガリレオの卵を飛ばしたいなあ。

ハーボットで繋がりたいなあ。

 

YouTubeで動画を見ているだけの毎日。興味のある動画は限られているから、同じものを何度も見ている。つまらない。

 

深夜になると「死にたい」以外の単語が頭に浮かばなくなってしまう。ずっと体調が悪い。

そんなことを親に悟られると親が勝手に病むので、私の体調は良いことにしておかなければならない。

本当は家事もやりたくないし、仕事もやりたくない。でも、できることにしておかなければならない。

手取りが18万あったらな。できれば20万あったらな。そんなことを考えても手取りは16万です。

 

何も無い。お金も無い。全部無い。無い無いづくしで笑っちゃうな。

 

最近は硬くて厚い足の角質が剥けた時だけ嬉しいね。剥きすぎるので歩行が困難になってきた。

 

なんかもうダメだと思う。

AIイラストを受け入れる

いわゆる「AI絵師」たちの現在の活動を、これからも受け入れ続けるという意味ではない。

今はいくつかの訴訟が上がっているし、批判の声を上げつつ結果を見守りたいと思う。


「AIイラストを受け入れる」と言うのは、一連の騒動で壊れてしまった私の「絵」への感情に折り合いをつけるという意味だ。
これに関しては、誰も悪くない。私も被害者ではない。私が勝手に「絵」に信仰めいた感情を抱いていて、それがポッキリ壊れてしまっただけだ。
既に生まれてしまったAIイラストは無くならない。私の中で「絵」が輝きを失ってしまったことも、もう戻らない。

私にとって、絵を描くことは魔法陣を描くことと同義だった。
ククリが地面におともだちを描けばそれが具現化する世界に生きていた。難しい魔法陣を描けば、強くてすごいベームベームちゃんが出現するはずだった。でも今は、地面のお絵かきはただの土の窪みだったと理解させられてしまった。その「理解」が何故起こったのか、私はまだ言語化することが出来ない。
今はただただ虚しく、ペンを持てない。まずは「AIイラストが存在してしまった現在」を、私は受け入れなければならない。そうしなければ、何が私を壊してしまったのかわからないままだから。


NovelAIが流行った時、嫌な絵だと思った。あの嫌悪感の正体は検討がついている。おそらく、絵になんの情報も無いせいだと思う。
人間が描いていればどれほど拙くとも自ずと見えてくる、描き手が言いたいこと、伝えたいこと、好きなもの、そういった情報が何も入っていない。上から下へと目がスーッと滑って行って、外側に流れて行って終わってしまう。
くすんでお洒落なだけの平坦な色が、情報を全部キャンバスの外に流してしまっている。色々なものが精密に描かれているのに、それらが何の意味も持っていない。
この気味の悪い絵が、私の絵への信仰を削ったのは確かだ。でも、決定打では無かった。

決定打はあくまで、ゆーます氏のi2i事件だったと思う。結局のところは、人間への失望なのだろうか。
人間はクソだから、悪用できるツールがあれば悪用するに決まっている。著作権ロンダリング?しないわけがない。法が整備されていないような状態だから、反社が利用するのも当然だ。そんなことはどうでもいい。どうでもよくはないが、私の絵への失望とは無関係だ。

おそらく私は、そこまでの悪人ではない普通のAI絵師たちに対して何かしら、絵描きとしての共感を抱いていたのだと思う。言語化できないけれど、確かにあった。でも、あの人たちは絵描きじゃなかったし、魔法使いに憧れてもいなかったし、そもそも大衆は魔法なんか見えていなかった。魔法は無かった。私の幻覚だった。絵は輝いていなかったし、単なる紙だった。単なるデータだった。

私は素敵な魔法使いにお布施をしていたつもりだったけれど、実際はpngやpdfにお金を払っていただけだった。
言語化できない。とにかく世界は灰色になってしまった。

20年絵を描いてきた。つけペンと水彩絵の具を使って絵を描き始めた。
ノートへのラクガキを含めれば、もっと長く絵を描いてきた。人生の殆どで絵を描いてきた。
筆を折る日が来ることは予想していたけれど、世界が壊れることは予想していなかった。
こんな状態には耐えられない。

絶対に言語化しなければならない。私にとって、とても大切なことだから。

2022年、とにかく死にたかった

2022年、思い返せば、とにかく安楽死のツイートをしていた。

今年の初め頃、私はただでさえうまくいかない仕事で上司と折り合いが付かず、成果が出ない、遅刻が多いと問題にされ、問題社員そのもので、もう本当にダメだった。朝から晩まで泣いていた。テレワークだから泣いていてもよかった。それが本当に「よかった」のかはわからないけれど。
その後異動になり、上司も代わり、仕事への不満は何も無くなった。それだと言うのに、私は以前よりずっとずっと死にたくなった。

私の脳みそは苦痛を自分から切り離す傾向がある。そうして、少し心に余裕ができた時、その余裕に過去の苦痛が入り込んでしまうのだ。30年間眠らせていたストレスが、なんの悩みも無い時期に、ふいにパニック障害として現れた時のように。
今もきっと、その状態なのだ。毎日のように、自分は死ぬべきだと思う。ドアノブを見ては首を吊って死んでしまうことを妄想して、どれほど苦しいか、失敗したらどうなるかと、妄想を振り払う毎日だ。

安楽死を認めないこの国への恨みばかりが深まっていく。安楽死、それもメンヘラの安楽死をそう簡単に認められないことくらい、少し考えればわかるはずなのに。

薬の処方量も増えた。以前は頓服は本当に頓服だったのに、今や毎日定時に飲まないと、不安に押し潰されてしまう。私はもう薬を飲み続けるしかない。きっとこれから加齢と共に、人生への絶望はずっとずっと深まっていく。
「生きていればいいことがある」わけがないのだ。私は既に、時折発生する小さな小さな「いいこと」を、味がなくなるまで噛み締めて人生を誤魔化すことしかできていない。
「いいこと」はきっと、これから一つも起こらなくなる。昔話を繰り返すこと以外何も出来なくなった時、私は他人を傷つけずにいられるのだろうか?そうなる前に死ななければならないと、日を追うごとに焦燥感が募っていく。

死ななければ、死ななければ、一刻も早く!

そうして、死ぬことすら出来ない自分の弱さに毎夜泣いている。醜いったらありゃしない。


今年の私は最悪だった。来年はもっと最悪になる。いつかきちんと死ねるのだろうか?きちんと死ねたら、その時は「えらかったね」と思ってほしい。でも、「逃げやがったな」と思ってもいい。どう思われても、そのとき私はもういない。臆病なので、きっと来年も死なないと思うけど。
生きたかった人の明日を、ぐずぐずと生きている。最低だなと思う。思うだけだ。何も出来ない。

最悪だったけれど、今年はいい絵を描けた。他人から見てどうあれ、今年の私は自分の人生を絵に残せたと思う。
20年以上ぼんやりと絵を描いてきた。描くべきものを描けたと思える瞬間というのは、片手で数えられる程しかない。その一瞬が今年は存在したわけなので、それを理由に「いい一年だった」と言っていい気はしてくる。そうだな。そうかもしれない。

2022年、いい一年だった。2023年もいい一年になりますように。

本当に死にたいのかと聞かれれば、

そんなもの、 NOに決まっている。


どれほどの決意が必要か。どれほどの葛藤、どれほどの苦痛が伴うのか。そして、それを乗り越えた結果、死に損ねたりでもしたら!そんなことばかり考えて、気が狂いそうになる。


死にたいわけがない。人間は死を恐怖するようにできている。死後のことを語る人間が存在しない以上、死ねば安寧なのかすら、実際のところはわからない。


それでもこの人生における唯一の解決方法は死しかない。本当は「生まれたくなかった」。しかし、生まれてしまったからにはそれはもう叶いようがない。


ただ生きているだけで呼吸が苦しい。全てのものが霞んで灰色に見える。死ぬことばかり考えている生活。安らかな死を与えてくれない政治に八つ当たりをするだけの、どうしようもないTwitterアカウント。興味のある政治は安楽死のことだけ。

イーロンマスクは私の死への欲求を見逃してくれるだろうか?Twitterに拒絶されたら、パートナーも友人もいない私にとって、いよいよこの世は地獄となるだろう。


最初からこの世は地獄で、私の生は罰なのだろうか?わからない。望んでもいないのに、母の身体から一方的に放り出されたことだけは事実だ。全ての動物がそうして生まれてくる。誰一人望んじゃいないのに。地獄かどうかはわからないが、理不尽であることだけは確かだ。


親は、お前より不幸な人間はたくさんいると言う。無論、その通りだ。

虐待や貧困に喘ぐ子ども達。戦争へ向かう若者達。身体的な病気。事故。欠損。比べてしまえば私は幸福だ。しかし、私は親に対してなんら愚痴を並べ立てたりはしていないし、ただ、時折パニック発作を起こして一人で倒れているだけだ。

なんの要求もせず、この世への不満を口にすることもなくただ倒れているだけの病気の娘に、「お前だけが不幸だと思うな」とは、とんだ毒親である。

お前がこの世に私を放り出したから苦しいのだと口にしないだけ、私は良い娘ではなかろうか?

私には人の心がある。だから、そんなことを口にしたら母がどれほど憔悴するか、私は知っている。


この記事に結論はない。今日も死ねなかった。ただそれだけの記録だ。


せっかくなので、最近の趣味の話をする。イマジナリーフレンドとの「死ごっこ」にハマっている。

まず横になる。深い瞑想から変性意識状態に入る。そうすると、とても綺麗な(空想的で、曖昧な世界だ)場所でイマジナリーフレンドが私を待っている。

イマジナリーフレンドは、私の首を遠慮なく落とす。ゴトリと、地面に大きなものが落下した音がする。頭は重いため、頭から解放された私は体の軽さに感動し、くるりくるりとその場で踊り出す。

いずれ失血死して土に還る。稀に、そこから木が生えたりもする。


大木は世界そのものだ。枝葉を優しく撫でていく風、葉の上を歩き、小さな牙を立てる虫。そのような微かな感覚が私の全身を心地よく刺激する。感覚の全てが中央に集まっていく。みんなも大木になってみればいい。変性意識から現実に帰ってきた時、人体のあまりの矮小さに絶望して泣くことだろう。少なくとも、私は毎回泣いている。

しかも、これは私とイマジナリーフレンドの想像上の大木に過ぎず、実際の大木たちは、きっともっと、繊細で大きな世界を見ているに違いないのだから。


人間はクソである。良いところが何もない。

Twitterのフォロワー達のことは好きなので、彼らがそれなりに健やかに生きてくれることだけは願っている。

他はどうでもいい。

レグカをはじめた

業務的にそろそろテレワークも一時中断といったところで、腕を切ると目立つので足を切ることにした。

傷をつけると幸福物質が出てストレスが緩和されるので、薬が効かない時、暴食できない時はどうしても切るしかない。

これ系の情報を調べようとするとすぐに電話相談に誘導されたりするけど、電話したらセロトニンが体に行き渡るのか?

通院はしている。薬ももらっている。私の脳はもう壊れているので戻らない。ちょっと血を出して楽になりたいだけなのに、すごく後ろめたいことをしている気分にさせられる。いいじゃないか、腕や脚くらい切ったって。


私はいい大人だ。「おばさん」に両足を突っ込んでいる。余談だが、この年齢の男性はまだまだ若者らしいので、なんだか腑に落ちない。とにかく、自分の判断、自分がもらった給与で精神科に通っている。それでも切るしかない時がある。

子供たちは通院もままならない。支援だって簡単には行き届かない。そんな子供たちから刃物を奪って何が解決するのだろう。身体を傷つけることを、穢れのように思うだろうか?彼らは自分を傷つけることでしか生きられないのに。


自分のことも、他人のことも、何もかもがままならない。

早く、なんらかの事故にでも遭って、状況を理解する間もなく0.2秒で即死したい。毎日死ぬことばかり考えているのに、どうしてそれを決断することはこんなにも難しいんだろう。


私はぐずぐずと生にしがみついて死ねないのに、猫が何も食べなくなった。

子猫の時から体の弱い猫で、もう18歳だ。随分長生きしたと思う。大往生と言っていい。

それでも、猫が死ぬくらいなら私が死んだ方が親も幸せだと思う。命を譲れたらいいのにな。

好きな相手に命を譲れるようになったら、幸せだろうな。


もし、私のようなただ死にたいだけの人間が合法的に安楽死を選択できるようになったら、どれほどの人間が不当に殺されてしまうのだろう。

「死ななければならない」と不当に思い込まされた人間たちが、たくさん殺されてしまうと思う。人間はクソなので。


人間がクソな限り私は自分で死ぬか、死ぬ時をただ待つしかない。そしてこれまでもこれからも人間はずっとクソ。腕だの足だのを自由に切ることくらい許される世の中じゃなきゃ、やってられんってワケ。

他人に迷惑かけるくらいならタルパでも作れとか

簡単に言うけれど。


タルパを実際に0から作った人の体験談を読むと、数年かかるのがザラの世界。ある程度「マトモ」な人間なら、現実の友人を作ったほうがよっぽど簡単だと思う。

人間はそんなに簡単には狂えない。狂えるのなら、違法な薬に頼ったりする必要なんかないわけで。

私は「運悪く狂ってしまった人間」である同時に、「運良く上手に狂えた人間」でもある。

上手に狂うこともできず、死ぬこともできず、孤独に地獄を生きている人間達が、この世には腐るほど存在する。


ところで、「タルパを作れ」を本当にタルパを作れとか思って言っている人は、いないと思う。あれは、「他人に迷惑かけずに一人で死ね」を100枚のオブラートに包んだ言葉だと思う。

今の時代を象徴するような冷たい突き放しだ。しかし、この世はずっとそうだったのだと思う。異端者は昔からいじめられていたし、もっと過去に遡れば、殺されていたはずだ。

そのような人間がかろうじて生きている、生かされてしまっている時代が現代。その上、この国は今、病気や貧困でいっぱいいっぱいだ。「俺(私)に寄りかからずに一人で死ね」としか言いようがない。そして、大半の人はそれを言わずに堪えている。優しくあろうとしている。

大半の人間、悲しいほどに優しいと、私は思う。「タルパを作れ」も、包んだオブラートに優しさがある。


狂うくらいしか救いがないこの世も、狂うことすら難しい人間の身体も、大変にクソである。

好きなおじさんがまた死んだ

安倍ちゃん殺されて死んでしまった。

ふつうに人間として好きだった。
政治家としてどうとかじゃなくて。

叩かれるのを恐れずに言えば政治家としても私は好きだったのだけど、それ以上に人間として好きだった。
今かなり苦しい。

腕切るのせっかくやめてたのにまた切ってしまった。
怪我をするとセロトニンが出る。緊張状態からスッと解放されるし、ぷつぷつ滲み出る血がかわいくて心が和むから、ついつい切ってしまう。

なんでみんな死んじゃうんだろう。幸せでいて欲しかったおじさん達が死んでいく。
許せないような人間はみんな生きている。
しかも、安倍ちゃんはわけのわからない人間に殺されて死んでしまった。安倍ちゃん家族写真あげてた。高齢のお母さん、息子をこんな形で失って、どれほど無念だろう。

私は生きているのにみんな死んでいく。命の価値が平等なわけがないのに、私の無くてもいいような命はまだあって、本能で生に執着している。醜くてみっともなくて反吐が出る。早く死ぬべきなのに。

生まれたくなかった。
生まれなければ何に失望することもなく、何に苦しむこともなかった。安倍ちゃんが死ぬのも見なくてすんだ。生まれなければ全て避けられたのに。

安倍ちゃんはインターネットで、誰よりも沢山の人から殺意を向けられていた。総理の座を退いても、沢山の人に死を願われていた。
今回の人がそれに影響されたかどうかはわからない。でも、あれらの言葉は呪いとして確実に機能してしまったと思う。
もう、「言うて死なんでしょ」は通用しない。言えば死ぬ。それは証明されてしまった。行動できてしまう人間がいる時代に来てしまった。
本当に生まれたくなかった。こんな時代を生きたくなかった。

辛くて仕方ない。切った腕の痛みだけが多幸感を与えてくれる。内側からじくじくと冷えて気持ちいい。これが全身に広がってそのまま死んじゃえばいいのにな。まあ、この冷えが全身に広がっても寒くて震えるだけで、死ねやしないのはパニック発作で経験済みなんだけど。
つらい。

冥福を祈るつもりにもなれない。

突然殺されてしまった人に、安らかに眠って欲しいと祈ること、私には出来ない。だって、安らかなわけがない。
もう何をすればいいかわからないので、どうぶつの森を起動して、片っ端から木をゆすって叩いて資材を回収した。

それくらいしか出来ない。